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NO64 2008年10月 連絡船・・・ 今年は青函連絡船の就航100年ですね。 私がはじめて乗ったのは小学校の修学旅行の時でした。 当時は、5時間ちかくかかったと思いますが、ちっとも退屈しませんでした。 貨車を飲み込むその巨体に驚き、 白波をたてて突き進む迫力に目を見張り、、 初めて見たイルカとの競争に歓声をあげていました。 しかしその翌年15号台風のため、洞爺丸をはじめ4隻が沈没し、 1400名に及ぶ死者、行方不明者を出したのです。 弘前の私の家の庭でも、クルミの木が根こそぎ倒れてしまいました。 その後海底トンネルの話が急速に再浮上し、 1988年、津軽海峡線の営業にともなって、80年の歴史に幕をおろしました。 その間、歌が何十もできました。 「津軽海峡冬景色」は有名ですね。 台風の時は「ああ青函連絡船」、 八甲田丸による終航のときは「さよなら青函連絡船」でした。 やはり歌は、その時々の出来事から生まれるのですね。 逆にいえば、歌によって、 個人的なことも含めての、 いろいろな思い出が呼び覚まされるのですね。 名前がフェリーにかわっても、いやスペースシャトルになっても、 歌はわたしたちの記憶の鍵になることでしょう。 NO 63 2008年8月 単調な日々を送っていませんか。 年度が変わって最初の出勤日、 私は正面玄関からはいって左に曲がり,階段を上りながら、 ふと違和感をおぼえた。 「あっ!」と気がつき、思わず周りに目を走らせる。 分掌がかわって別の職員室に移動し、 右に曲がらなければいけなかったのだ。 そばに同僚がいないのを幸いに、私は、階段を駆け下りた。 朝の日課のように3年も同じ行動をしていると、 身体が覚えていて、変化に即対応できないらしい。 年齢を感じた一瞬であっった。 考えてみると、起きてから寝るまで、 毎日だいたい同じように動いている場合が多い。 集団や組織に所属し、長い間同じような仕事をしていると、 他のことが目に留まらない。 外の世界が見えなくなる。 価値観さえその範囲内を出ることがなくなり、 いきずまると、もう終わりだと考えるようになる。 ほんとうは周りに窓がたくさんある。 その一つでも開けると、新鮮な空気がさっと入ってくる。 窓を開けるのに力はいらない。 好奇心とちょっとした冒険心だけでよい。 単調な日々はマイナーな日々。 たまにはメジャーしてみませんか。 もしよければ 短3度上がるエネルギーをあげますよ。 もっとも短調が好きだという向きもありますから、 無理には勧めませんがね・・・ウフフ。 NO62 2008年7月 「予備」というのがありましたね。 指揮法です。 人間はある行動に出ようとする時、 必ずアクションがあります。 たとえば野球でボールを打つ直前にバットを反対方向に動かします。 テニスやゴルフでも同じです。 また, 次におこるべきことの抵抗をより少なく スムーズになるようにする時にも使います。 先生が生徒に前もって次に当たることを知らせておくような場合で、 「予告」といいます。 和声法の予備と同じですね。 目的の和音の2度や7度の音を前の小節に置き、 繋留によってその和音に進行するようにして、 突然の不協和音感を緩和するものでした。 善悪の行動にしても、同じようなことがあり、 「動機」といいます。 どうやら、何事も、予備的行動を察知して適切に対応することが大切なようです。 ところで我が家では、 隣りの部屋にあるアナログテレビの音を聞きながら地デジを見ていると 2秒ほどおjくれて放映されています。 緊急地震情報は2秒前に出るということですが、 はたして予備になるのでしょうか。 NO61 2008年6月 蝸牛管というのがありましたね。 内耳です。 ここから脳に繋がっている神経は、 大きな音には鈍く、小さな音には敏感に働くのだそうです。 測定機器のデータと異なり、脳が自動的に調節しているのですね。 だから、強さが10倍になったからといって、 そんなには感じないし、 弱くなったからといって、そんなに小さく感じないといいます。 生身の人間としての防衛本能によるものなのでしょうね。 とすれば闇雲に大きな声でまくし立てても、そのわりに理解されず。 逆に小さな声で話すなかでの、ちょっとして強さの変化が、 より浸透することになるでしょう。 これは演奏のヒントになるとは思いませんか。 リズムやイントネーション、ニュアンス・・・ なにをとっても器械にはまだまだ理解できない分野のようです。 さて皆さん、カラオケの点数はいかがですか? NO60 2008年5月 若い人は、たくさん時間をもっていろので その大切さに気がつかない。 つい無駄に使ってしまう。 (この無駄は浪費ではない) 年齢を重ね、あるポイントを通過すると、 残された時間の少なさに、はたと気づく。 ついあせって、あれもこれもとやりたくなる。 しかし若い時のように物事を素早くは出来ない。 頭の回転をはじめ、すべての動きの速度は、 残された時間に比例して減少するのである。 だから年齢とともに一定の方向に流れる クロノスの時を離れることを学ぶのだ。 カイロスの時へと、精神移動するのである。 音楽は二つの時の狭間で生まれ、 演奏は後者から投影され、前者に乗って進むである。 NO59 2008年4月 オリンピックの年となりました。 選手たちは、それぞれの分野で、最高のパフォーマンスをみせ、 世界中の人たちに感動を与えてくれることでしょう。 気になるのは、大気の汚染問題と、チベットの暴動問題です。 後者では、ボイコットの話も浮上しています。 モスクワの時を思い出します。 スポーツは本来政治や宗教などを超えて行われるべきであり、 国によるボイコットなどで、 ただ1度の本番のために、 千回、一万回と練習を続けてきた、 アスリートの夢が奪われることはとても哀しいことです。 音楽にも同じことが言えます。 1回の本番のためにどれだけ多くの練習がなされていることでしょう。 そしてそれは、 幼い頃からの、膨大な時間の積み重ねのうえに成り立っていることを思えば、 真摯な演奏に対して、軽々に酷評したりするものではないと考えます。 逆に言えば 音楽する人たちは、それだけの時間に対するプライドと責任を持って ステージに臨まなければならないでしょう。 NO58 2008年3月 ルバートは盗むという意味でしたね。 だからテンポルバートは、 たとえば他からテンポを盗むことによって速くなり、 盗まれた方は遅くなる。 つまり、加速、減速にある程度の弾力性を与えるということでした。 元来音楽は、特に記号をつけなくても 自然に速度や強弱などに変化が生まれるもので、 作曲家は、その確認のためと、 速くなりたい所を遅くして欲しいというような、逆の場合に記号を用います。 又ショパンやリストなどロマン派以後の作曲家のように、 テンポルバートを楽譜自体の内に書き込んでしまい、 記号を必要としない場合もあります。 このような時間的変化は おそらく人間の身体活動の度合いや、感情の起伏による、 心臓鼓動の不随意的変化によるものだと思われます。 つまり私達は日常において、テンポルバートをしているのですね。 いやそうしないと生きていけないのです。 「テンポルバート」軽んずべからずじゃ! NO57 2008年2月 「ヌーボー」は新しいという意味で、ボジョレ・ヌーボーなどでよく知られています。 では「新しい」とはどんなことでしょうか。 真空管からトランジスタへ、ラジオからテレビへ、ワープロからパソコンへ、 どんどん新しくなり、便利になって、 「新しい」は「良い」と思ってしまいます。 もちろん、より便利にしようとして新しくするのですが、 それは、ほとんどの場合、道具を作ることに終止し、 人間自身のことには及んでいません。 その結果、当初は思いもしなかった反作用が顕在化してきました。 自分にとって良いことが、他人にとってはどうなのか、 人間にとって良いことが、自然にとってどうなのか、 現在大きな問題になっているにもかかわらず、 個人的、そして国家的エゴで対策がはかばかしく進んでいません。 濁点ひとつ取るのさえ大変なようです。 そういえば「ヌーボ−」には、 「要領を得ずつかみどころのない」という意味もありましたね。 こうしてみると、はたして人間の心は、 基本的なところで、古代から向上していると言えるのでしょうか。 音楽も、ただ新しさを追求するあまり、奇をてらうものであってはなりません。 理念の背景と、理論の裏付けがあって、DNAに作用し、 次の段階である「新しい人類」への、進化を促すものでありたいと思っています。 NO56 2008年1月 臨時記号は、文字どおり臨時に音を変化させるもので、 その小節内で、しかもオクターブ関係を含まない音だけに有効です。 それに対して調子記号は転調するまで、 あるいは曲の終わりまで、何小節でも続きます。 調性のある曲では、これを人間の一生にたとえることができます。 調子記号はその人の人生であり、 臨時記号は、その時々の小さな変化と考えられるからです。 臨時記号は同じ記号でも 前後の関係によってまったく異なる状況が生まれます。 これは主に人間関係について言えることです。 そしてそれが就職や結婚などのような大きな変化、 つまり転調へと繋がっていくこともあります。 普通は一度転調すると、ある程度落ち着くものですが、 すぐ原調に戻ったり、 中にはソナタの展開部のように、転調を繰り返す人もいます。 皆さんはどのタイプですか。 さて、2008年は「1」の年 良いにつけ、悪いにつけ、始まりの年です。 私は記号を徐々に整理して、 まずはハ長調に向かっていきたいと思っています。 新年、あけましておめでとうございます。 皆さんにとっては、良いお年でありますように! NO55 2007年12月 小さい音による演奏は、とても難しいものです。 音楽では、本来「p」は弱く「f」は強くという一般的見方は通用しません。 言い換えれば強い「p」や弱い「f」があるのですね。 感情は、抑えればおさえるほど内圧が高まるように、 「p」こそ、最大の緊張感をもって訴えかけ、 聴衆は耳をすませ、固唾を飲んで聴きいるのです。 そんな心に浸透する演奏は、 既に物理的な強弱を超えて、その深さを追求しているのですね。 チャイコフスキーは「p」を6個も使用していますが、 その音楽の深さは、「p」の数の2乗に比例した感動を与えてくれるのです。 p.pp.ppp.pppp.ppppp.pppppp...万歳! ♯ さて上記の「p」群はなんと読むのでしょうか NO54 2007年11月 とても大変な世の中になりました。 無差別に人を殺めるのですからね。 総合的にみると、種々のストレスに起因する行動ということになるのでしょうが そのストレスの原因となっているものを排除しようとするのではなく、 まったく関係のない、しかも子供にまで矛先を向けているのです。 つまりその人自身が強いものにぶつかっていく勇気がない 弱い人間だと言えるでしょう。 DVなど虐め的なことも同じですね。 実は虐めている人の方が弱いのです。 ほんとうに強い人は、むしろ守ってあげるでしょう。 何でもそうですが、 絶対勝てることに勝っても何の喜びもありません。 音楽をする人は、その意味で強くあって欲しいですね。 何故なら、なんにつけ自分がやらなければ出来ないからです。 どんな状況においても、どんなに孤独の中にあっても 次への一歩を踏み出すような、 そのために努力を惜しまないような人であってほしいのです。 NO53 2007年10月 ペルーで直径20メートル深さ5メートルの穴があいているのが見つかった。 周囲の住民が吐き気などの症状を訴えているという。 当局の調べでは隕石の落下によるもので、 地中のガスが漏れだしているという。 怖いですね、もし都市部だったら大事故になっていることでしょう。 隕石といえば、恐竜の絶滅に繋がった6500万年前の出来事が有名です。 直径10キロメートル超の岩石が 秒速50キロメートルのスピードで地球に衝突したという。 地殻をやぶってマントルを吹き上げ、 地球の公転軌道コースが数十メートルずれたという。 5大絶滅というのがある。 二畳紀末には、発達した魚類を絶滅させ、古生代から中生代へ 前述の場合は恐竜を絶滅させ中生代から新生代へうつり ほ乳類の発達を促した つまりこの現象は新しい生物に発展する機会を与えている。 規模の差こそあれ現在の実生活でも常におこっていることであり、 進化の袋小路にはまらないようにするための、 神の配剤なのかも知れない。 音楽はどうか。 古典派、ロマン派、印象派・・・など変わっていくが、 それらはすべてその時代の現代音楽であり、 名曲は時を超えて残っている。 おそらく200年後の宇宙船の中でもバッハが聴けるだろう。 私達は破壊されずに残っている巨大彗星が、飛び交うなかで暮らしているという。 5大絶滅のようなことは億年の単位だが 地球は3000年ごとにそのもっとも厚い部分を通過する。 最近は、それが紀元500年だという。・・・まだ500年はあるか・・・。 NO、52 2007年9月 北極の海氷が後退している。 ポーコアポーコではない。プレストだ。 それに伴い周囲の5ヶ国が、にわかに領海を主張し、競い始めた。 海底に眠る豊富な資源のためだ。 アッチェレランドする温暖化。 世界的にみると 南極の棚氷の崩落し、 グリーンランドをはじめとする各地で氷河が後退している。 南太平洋の島国では上昇する海面により、 国家存亡の危機に見舞われている。 日本でもEEZ保持のために 岩と化した島を、沈まないようにコンクリートで補強している。 実際に被害もでている。 アメリカの寒波、ヨーロッパの熱波、 中国やオーストラリアの洪水、 すべて数も規模も巨大化している。 このまま進むと、5,60年後には、東京は鹿児島なみに弘前は雪国ではなくなる。 一方南部では亜熱帯となり、マラリアをはじめとする熱帯性の病原菌の温床となる。 これは私達が知らず知らずのうちに生活してきた結果である。 しかし今それに気づいたからには、 次の世代に負の遺産を残すわけにはいかない。 スイスでは氷河に陽光反射シートをかけているというが、 ことは一国の問題ではない。 シロクマがエレジアコに天を仰ぐ。 京都議定書を机上のものとしてはならないのだ。 NO51 2007年8月 新潟でまた地震があった。 しかも震源が原発の直下に近いという。 原発は活断層の直上をさけ、揺れにくい岩盤の上に設置される。 その地域で発生する最大の地震を設定し それに耐えられるように設計する。 万が一に備えて 炉の停止や炉心の冷却など緊急安全装置がそなわっている。 しかし昨今は、どの分野においても「想定外」が多い。 それ以上の揺れや、安全装置が作動しないなどの可能性もある。 チェルノブイリのようになったら日本は絶滅する。 反面、現在日本では、電力の3分の1を原子力に頼っている。 大口の工場などをはじめしとして 家庭においても電力を3分の2に抑制されたら、生活が成り立たない。 核融合の実用化には50年はかかるだろう。 地熱、風力、潮力、海水温度差、そして宇宙空間からの太陽光など 自然のエネルギーを求める方法をを開発しなければならない。 阪神大震災のあった神戸と新潟との間は 「神戸新潟ひずみ集中帯」という。 弘前にはたいした活断層はないときく、 しかし250年ほど前にはM7.3の震源であったとか。 アンダンテ・トランクイッロの後には たいていアレグロ・コン・フォーコがやってくる。 そしてコン・ブリオで終わるか、コン・ドローレで終わるかは 私達自身の選択にかかっているのだ。 NO50 2007年7月 ハーモニーは大脳新皮質に関係するものなのか、 人間以外でハモったという話は聞かない。 リズムは生命体そのものであり、 メロディーも多くの生物が発信している。 しかしハーモニーは人間だけだ。 つまり、ハーモニーは人間の証明といってよい。 日本的に言えば、声を和することである。 それを研究、体系化したのが「和声学」であり、 それはそのまま心を和するという より高次な世界に相転移する。 「心を和せよ」 古来多くの人たちによって言われてきた。 しかし和声と和心を結びつけて体系ずけたという話は聞かない。 あまりにも当たり前なので盲点になっているのだ。 ここで「和心学」を提唱したい。 まず声を合わせることから始め、合唱にする。 本来誰でもそうしたいと思っているのだ。 カラオケなど、多くの人に親しまれている分野でも、 ハモリたくなっているではないか。 やはり人間の証明なのだ。 無意識に「人間である」と叫んでいるのだ。 歌をうたうのに国境はない。 声を合わせ、心を合わせることは、 自分を主張しながらも、相手の主張に耳を傾けることになり、 そこにハーモニーバランスが生まれる。 殺伐な雰囲気が漂う今こそ、それが必要だ。 にもかかわらず 人間にしか与えられていない すばらしい機能を 使わずに埋もれさせてしまうのは 行かない選挙、買わない宝くじだ。 みんなでハモろう。 声も心も。 「和心学」は 結果的に人類発展につながるのだ。 NO49 2007年6月 ローマには地下鉄が2系統しかないという。 網の目のように張り巡らせた東京とは大きな違いだが、 掘れば遺跡にぶつかるローマならではのことだ。 考えるまでもなく、 私達の生活は先人の遺産の上に成り立っている。 埋蔵文化に限らない、 たとえば電気。 その存在を発見し、その効果を知って、多くの発明があったからこそ、 現在私達が便利な生活を享受できているのだ。 だとすれば、 ただ先人の遺産のうえに胡座をかいていて良いのだろうか。 いくらかでも、それにプラスし、次の世代に伝えていくべきではないか。 それは、ほんの一部の天才の成せる業だと、しておいて良いのか。 中高生諸君! その天才になってみようと思わないか! 音楽も同じだ。 「未来コンサート」に出演してみないか! 「弘前桜の園作曲コンクール」に応募してみないか! NO48 2007年5月 「いろはにほへと、ちりぬるを、わかよたれそ、つねならむ・・・」 始まったものはすべて終わるのだ しかし 始まる前に終わるのが見えているのは 幸福とはiいえない 幼い頃 楽しいことがあると 一月も前から待ちわびていた 今、すべては始まる前に終わっている 一瞬を超えたマイナスの時間が流れる いつの間にか陽は昇り、沈む いつのまにか月は満ち、欠ける 私達はこの一瞬も地球が高速で太陽を廻っていることを意識しているか やがてその太陽にも終わりの時がやってくると考えたことがあるか その時、人間はいったい何処へ行くのだろうか 「共に死を迎える派」と 「新天地を求める派」に分かれるのだろうか せめて終わりの見えない旅に出てみたい 芸術がそうであるように 今月から第2シーズン「いろはバージョン」の始まりです。 NO47 2007年4月 ンゴロンゴロ自然保護区はタンザニアの世界遺産です。 とくに直径20キロ深さ500メートルのンゴロンゴロ・クレーターは有名です。 アフリカゾウ、ライオンをはじめ、カバ、シマウマ、ガゼル、 アフリカスイギュウ、フラミンゴなど 多種多様な動物が行き交い 「世界最大の動物園」といわれています。 その姿を想像する時、 わたしは「スコア」を思うのです。 たくさんの音符がいろいろなリズムで走り廻っているではありませんか。 シロナガスクジラは「下一点音」、ゾウは「ひらがな音」、カバやサイは「かたかな音」、 「一点音」は人間や猿など、「二点音」は小動物、「三点音」は昆虫・・・ それらが大きく小さく、速く遅く、高く低く、歩いたり飛び跳ねたり、 いやはや大変なにぎわいぶりです。 でも、よく見ると、実はルールがあって整然としているのですね。 自然も同じです。 水が雨・川・海・水蒸気・雲と循環しているように 生物にはヒエラルキーがあり食物連鎖があります。 それが崩れてきたのです・・・最近は。 原因は私達人間にあります。 異常気象は、いまや「目にはさやかに見え」始めています 今、太平洋の島々は海水の浸食に悩まされています 沖の鳥島は沈みかけています 日本のEEZははどうなるでしょうか これらは、知らないうちに 私達が作り出していたのですね。 でも、知ったからには対策を実行に移さなければいけません。 わたしも「スコア」の手直しをしましょう。 この拙文はこれで第一シーズンを終了し 来月からは第2シーズンとなります。 NO46 2007年3月 「をみな」・・・ なんと雅な呼称でしょう。 これを聞くと 大中恩の混成合唱曲 「秋の女(をみな)よ」を思い出すのです。 秋の女よ・・・・・・佐藤春夫 泣き濡れて 秋の女よ わが幻のなかに来る 泣き濡れた秋の女を 時雨だとわたしは思う 泣き濡れて 秋の女よ 汝は古城の道に去る 頸に柳葉がちりかかる 枯れた蓮を見もしない 泣き濡れて 秋の女よ 汝が歩みは一歩一歩 愛する者から遠ざかる 泣き濡れて泣き濡れて 泣き濡れて 秋の女よ わが幻のなかに去る 泣き濡れた秋の女を 時雨だとわたしは思う ひとしきりわたしを泣かせ またなぐさめて 秋の女よ 凄まじく枯れた古城の道を わが心だとわたしは思う この詩の後になにを語りましょう。 自然に旋律が生まれたに違いありません。 NO45 2007年2月 和音は、それ自体自分の存在証明をすることが出来ません。 たとえばC(ドミソ)はハ長調のTとは限りません。 ト長調のWやヘ長調のX、そしてホ短調のYかもしれません。 そこでその和音の前に別の和音をもってきて、 たとえばGーC、FーCのように繋げてみます。 それでもやはりト長調のWやヘ長調のXかもしれません。 G7ーCとしたらどうでしょう。 このCはハ長調のTにきこえてきます。でも理論上まだ不十分です。 ではどうすれば良いのでしょうか。 Cから始め、CーG7ーCと繋げればよいのですね。 このように調を確定する最小の単位をカデンツといいました。 推理小説なら、さしずめG7はCのアリバイです。 CにとってG7は自分の存在を証明してくれる ラッキーな人といえるでしょう。 さて助けてもらったら、お礼をしなくてはいけません。 だから、ある時Cはセブン(C7)に変身してFのアリバイとなり、 FはF7になってBbの、BbはBb7となってEbのというように、 助け合いながら12の調を巡り又Cに戻るのです。 実はこれは十二支と同じなんですね。 「Db生まれは食うには困らない」なんてことがでてくるのです・・・ウフフ。 (あっ!余談になりました) つまりセブンはラッキーなのです。 「ラッキーセブン」というのは 和声進行から導き出されたのかも知れませんね。 「あなたのセブンになりたいのです」 なんて言われてみたいですね。 NO44 2007年1月 「ロンド形式」 小さい頃、誰かが言ったのを聞いたのでしょうか。 「ロンドンけいしき」だと思っていました。 まだ「形式」が何かも知らない頃のことです。 小学校の頃、 毛布がわりに、寝転がっていた、一枚の大きな世界地図 世界の国々や山、川、湖などに思いをよせていたボクでした。 すごい先生がいて そんなボクをみて、みんなが別のことをしているj授業時間なのに ボクに模造紙を与え、地図を書かせてくれたのです。 当然「ロンドン」は知っていました。 「ロンドン形式」があるんだから「パリ形式」や「ワシントン形式」もあり、 何の形式だか知らないが 「カイロ形式」「カルカッタ形式」なんて面白いなと 一人楽しんでいたのです。 中学校に入り、楽典を勉強するようになって 初めて、「ロンドン」ではなく「ロンド」で 「回旋曲」というのだと分かりました。 AーBーAーCーAが基本で B,Cは性格や調などが変化するものでしたね。 それが、いろいろ発展していき、 ソナタ形式と結合して「ロンドソナタ形式」ができたのでした。 これらの形式は何故できたのか。 音楽に限らず、あらゆる分野で「形式」が使われるのは何故かというと 「私達にとって心地よい」からに他なりません。 ならば何故心地よいのかと考えを進め、ふと気がついたのです。 A、B,C、Dは代表としてアルファベットを使っているだけで べつになんでもかまわないのですね ボクは、きっとA、C、G、T、からきていると思ったのです。 「アデニン」「シトシン」グアニン」「チミン」・・・DNAの塩基配列ですね。 誰にでも4個しかない最小単位ですが、 それからすべてが始まります。 23世紀になって、どんなに破調を志し、 いかに新しさを求めたにしても そのなかに必ず形式が生まれるでしょう。 いや、いずれは、そこに戻るにちがいありません。 いわば、その時 人は無意識のうちに人に還るのですからね。 2007年、明けましておめでとうございます。 私達は便利さを追求するあまり、何か忘れてはいませんか 今年は「人が人に還る」へ、 一歩踏み出す年となるでしょう。 NO43 2006年12月 レンズは身近なメガネやカメラから、 望遠鏡や顕微鏡など, いろいろなものに使われています。 そのレンズで、もっとも気になるのは、焦点距離でしょう。 拡大鏡を上下させて一番見やすいポイントですね。 もう何十年も前、ボクが高校生の頃、 ある先生が路上で虫眼鏡を使ってタバコに火をつけようとしていました。 「スゴイ人だ」と思ったものです。 オリンピックの聖火と同じですからね。 しかもそれだけではありません、 タバコを通して聖火、いや太陽を吸い込もうというのです。 人は誰でも何枚かのレンズをもっているのですね。 それを組み合わせて焦点を見つけられれば、 太陽を呼び込み、発火させ燃え上がらせることができるのです。 その炎こそ芸術なのですね。 「爆発だ」と言った人がいましたが、正に当を得ています。 皆さんのレンズはいかがですか。 くもっていませんか。 焦点が合っていますか。 NO42 2006年11月 ルナちゃんはとても恥ずかしがり屋だったようです。 ルナ(月)は遠い昔、地球に火星サイズの天体が衝突して、 その破片が集まり、1ヵ月ぐらいのうちに出来たそうです。 その時、月は地球を焦点の一つとする楕円軌道を廻っていて、 地球を2周する間に3回自転していたといいます。 やがて地球との重力相互作用によって円軌道になり、 自転と公転の周期がそろいました。、 だから現在は、いつもその表側しか見ることが出来ません。 というのが物理的説明ですが、 音楽的にはどうでしょうか。 2対3というのは月にとって、しっくりこなかったのですね。 2連符と3連符を同時に弾くのに、苦労した経験があります。 月も同じだったのではないでしょうか。 そして、無意識のうちに 1対1になりたいと願ったのではないでしょうか。 でも、本当の理由は? 裏側を見られるが恥ずかしかったのです。 ルナちゃんはそんなシャイな子なんですね。 ボクと同じで... NO41 2006年10月 臨時記号は、今までの曲の流れに変化を与えるために用いるものですね。 普通は、経過音や補助音など正に臨時に使用されるものから、 一時転調や、大きな転調前後の手続きとして用いられます。 でも、これは調性がある場合ですね。 無調の時は、それ自体の音高を示すだけとなり、 臨時記号の概念が失われてしまいます。 さて私達人間もある意味、 自分の持っているたくさんの音(特徴)をつかって、 すこしずつ独自の調(人格)を確立しようとしてきました。 TPOによって臨時記号をつけたり消したりしながら、 移調、転調を行ってきました。 しかし、どんどん世の中が変化し、複雑になるにつれて、 それに対応しきれず、 ドロップアウトする人たちもでてきましたね。 そろそろ私たちも 「臨時記号シンドローム」 (周囲に合わせて自分を変えようと苦慮しすぎる) から抜け出して、 もっている音そのものに注目し 個性を発見して磨き上げてみてはいかがでしょうか。 NO40 2006年9月 「ラ」(A)の音が440と決まったのは 1955年の国際標準化機構の勧告(75年再確認)によるもので、 それ以前は360から510くらいまで、まちまちであったようです。 1800年以降は プレトーリウスの標準ピッチに近い420(現在より約半音低い)台でしたが、 その後、弦楽器や弦の強度があがり、 音に強さが求められるようになって現在に至っています。 そして今はさらに輝きを求められ42から45と、あがる傾向にあるようです。 技術の進歩により、ピッチの違いで 録音の編集に悪影響を及ぼすこともなくなり(録音日がちがうのは困る)ましたが 歌手にとってはたいへんかもしれませんね。 いずれにしても人間が決めることです。 まあ冥王星が惑星でなくなるなんてこともあるのですから これからどうなるかは予測できませんがね。 NO39 2006年8月 ヨーデルは胸声と仮声を用いて、音域を瞬間的に変化させ、 呼びかけたり歌ったりするもので オーストリアやスイスのアルプス地方のものがよく知られています。 スイスでは三和音の即興的な和声に支えられたソロヨーデルをはじめ、 多声のものもあり、アルプスの北側のみに、みられるナトゥールヨーデルのように 即興的なリズムと舞曲風のテンポ(緩または急)で歌われるものから、 ヨーデルリートとしてスイス的な要素を強調した合唱曲もあり それぞれの地方でコンクールなどが行われています。 ヨーロッパ以外では、歌詞をもたず、きわめて複雑な多声で知られる、 アフリカのピグミーのものがが有名です。 そう、津軽にも「ホーハイ」がありますね これらヨーデルに関する研究はあまり進んでいないようです。 誰かやってみる人はいませんか。 NO38 2006年7月 有節歌曲は、詩が1番2番と変わっても旋律が同じであり、 通作歌曲は、詩の内容によって旋律が変化していくもので、 いずれもシューベルトが完成した芸術歌曲の2つの形である。 一般的に言えば、前者は旋律を繰り返すことによって 強く印象ずけることができるが、 1番が「春」「楽しい」、2番が「冬」「厳しい」などの 状況や心情に対応しきれず、 後者は時々刻々と変わる詩の内容に旋律が対応できるが、 全体の旋律をすぐに歌えるようには把握できない。 一長一短のように見えるが、 実は、ピアノパートとの連携が密接になり、重要性が高まるに至って、 それぞれ独立した位置を誇りながらも、 多くの接点をもつ作品として完成している。 さらに、それが演奏との関係において深化するのである、 リートは、詩と曲と演奏の三者が混合、融合して3以上のものとなり、 全象限に生滅している。 私達は、名演奏によって、 まさに生じている瞬間に出会っているのである。 ウフフ、ちょっと堅くなっちゃったね。 リートについて、もう少し知りたい人には 「シューベルトのリート」(村田千尋著、音楽之友社)をおすすめします。 分かりやすく、しかも格調高いですよ。 NO37 2006年6月 山登りで頂上に立つためには、 @登山道を行く A直登する Bカゴを雇う C空から降りる いろいろありますね。 では壁にぶつかったら、 @迂回する A力ずくでぶち壊す B梯子を借りる C穴を掘って抜ける 山登りは「人生」、壁は「障害」、それらの高さはいろいろで、 しかも、低いからといって、うまく行くとは限りません。 それぞれの人生なんですね。 ところで、恋に破れたらどうしましょうか。 @酒を飲んで時にまかせる A「語る会」のネットワークをつくる B別のひとをさがす D芸術の創作にいそしむ うん!これもまた人生。 やはり芸術は得ても失っても高揚する S.B.(カレーではありません)、 スーパービューティーなのですね。 NO36 2006年5月 モーツァルトは3歳で和音を楽しみ、4歳でクラヴィアを弾き、5歳で作曲を始めました。 8歳で交響曲を12歳でオペラを書いたのです。 正に神童だったのですね。 そんな彼の父、レオポルトのレッスンは遊びながらのように行われ、 2人とも楽しく、まったく苦にはならないものだったと、姉のナンネルが回顧しています。 その後の彼の作曲の原点は 3歳の「遊び」とその延長上の楽しいレッスンにあったのですね。 正しいからといって、強制する指導は、 よほど意志の強い子供でないかぎり失敗に終わることが多いようです。 特に天才には強制は必要ないのですね。 しかし、強制の中にあっても、それを苦にすることなく こなしていくのも又天才の天才たる所以です。 さて、皆さんの周りにそんな子供がいませんか。 第2のモーツァルトが現れるまでには、 もう200年ほどかかりそうではありますが・・・。 NO35 2006年4月 「メロス」といえば太宰治の「走れメロス」を思い出します。 彼は精神的に希望・絶望、信頼・不信、 義理・不義理などの間を行き来しながらも、 様々な困難を乗り越えて約束を果たし、 人間の心を信じないデオニス王を翻意させたヒーローです。 では何故太宰は このヒーローに「メロス」と名付けたのでしょうか。 この物語は実は「音楽」なのですね。 対極にある心情を、たえず揺れ動く旋律 懸命に走り続けるリズム そして、「約束を守ることの大切さ」という ハーモニーで全体を包み込んでいるのです。 太宰は起伏のある旋律線の上をひたすら走り 最後に「努力は報いられる」という主音に着地して 大団円となることをイメージしたのではないでしょうか。 なぜなら 「メロス」はギリシャ語で「メロディー」を意味するからです。 前回書いた私の「ムーの幻影」に出てくる阿井舜真も 実は「愛」なのです。 創作する者は 人知れず自分も楽しんでいるのですね。 NO34 2006年3月 「ムーの幻影」というSF小説を書きました。 もう10何年も前のことです。陸奥新報紙に連載し出版したのです。 平安を求めて遠い星からやってきたヒューマノイド阿井と 24歳の恂子との愛を中心に 物語りは破天荒なスケールで展開していきます。 そのなかでムー帝国の首都、 水の都ヒラニプラに、 時の旅人でもある阿井が現れて 恂子を想うシーンがあります。 緑の丘をぬって流れる川には蓮が白い花を咲かせ、 遠くに神殿がけむっていた。 男が一人佇んで、内海を見つめている。 あたり一面に花が咲き乱れ、色とりどりの蝶が舞っている。 彼は想っていた。 遙か6000キロの彼方を。 1万3000年の時を超えて 出会うであろうひとのことを。 (これでいいのだろうか・・・) ・・・・・中略・・・・・ やがて男の姿は明るい陽光の中にぼやけはじめ、消滅した。 どこかでギターのトレモロが聴こえていた。 小説には音楽を使わないつもりのボクが つい書いてしまった一行でした。 それは後日ギター4重奏「いにしえの水の都にて」となって発表されたのです。 やはり、音楽から逃れることはできないのですね。 NO33 2006年 「ミはみんなのミ」という歌詞がありました。 それをちょっと考えてみたのです。 まず「みんなの」というのは 「みんなが持っている」「みんなのための」 ということで 「みんなに共通する」「みんなに大切な」 ということになります。 次に「ミ」というのは ハ長調、主和音の第3音、 主音と属音の中間にあってどちらにも属さず しかし上下をしっかりと結びつけています。 「ミ」がなければ「ドとソ」は主和音として成り立たちません。、 何調だって同じです。 「ミ」はみんなを巡り合わせ、 コミュニケーションをとっているかが分かります。 やはり「ミはみんなのミ」なのですね。 そういえば 「ミ」のことを日本語では「中音」と言うではありませんか。 さて、音符占いです。 みなさんは「ド」型「ミ」型「ソ」型(たいていはこの中にはいる) のうちで考えると、どれでしょうか。 えっボクですか? 先生だったから「シ」でしょう 「シ」は日本語でなんというでしょうね・・・ウフフ。 NO32 2006年1月 マルカート、レガート、アクセント、スタッカート、 アレグロ、アダージョ、フォルテ、ピアノ..... 「これらはいったい何でしょうか?」 「もちろん音楽用語ですよ」 「そうですね、ではなんのために使うのですか」 「速度や強弱、アーティキュレーションなどは、演奏の目安にするためでしょう もっとありますよ、ドルチェ、アジタート、ラメントーソ、などの発想記号です」 上記の会話は単純すぎますね。 ちょっと考えてみると、 これらの音楽用語は私たちの生活そのものであることが分かります。 「あんなにアレグロ、フォルテ、アパッショナートでコンフォーコであったのにねぇ」 「うん、最近はメノモッソでディミヌエンドの一途をたどっていますね」 「もうすぐカランドでフィーネでしょう」 というわけです。 それでは本体、つまり楽譜はなんでしょうか? もうおわかりですね。 人間そのもの、音符は細胞なのです。 作曲家は子供を産んでいるのですね...作品1.2.3と。 さて、その子はその後どのように育つのでしょうか? 8の年。 あけましておめでとうございます! No31 2005年12月 ホルン 金管のあらゆるテクニックが可能で ソロにコードに他楽器との融合にと活躍し、 雄大な自然から繊細な人間の感情まで表現が幅広く、 書いていると、いつの間にかホルンのパートが多くなってしまいます。 この楽器がオーケストラに登場したのは1700年以後で、 意外に新しく、ヘンデルの「水上の音楽」が有名です。 当時は自然倍音のほかに、いくつかの音しか出せず、 調によって楽器を取り替えていました。 替管ができると、 奏者はいつも10本ほどを持ち歩き大変だったといいます。 ふと思うに、私たちも自分の中に何本かの替管をもっているようです。 なかなか替えることができず悩んでいる人もいれば、 バルブなどを使って 一瞬のうちに自分の言動や行動を切り替えてしまう人もいます。 なかにはダブルホルンのように、二つの人格を両立させている人もいます。 さて皆さんはどんな替え管を、何本もっているでしょうか。 No30 2005年11月 変ロ長調。 小さい頃これを聞いて「変な調」だと思っていました。 中学校で楽典を勉強している時も #が「嬰」なのはなんとなくそれらしいけれど b だけがが「変」なのは、やはり変だと思っていました。 和声を始めて変位というのがあり上方と下方があるのを知って、 これは納得し、だからこそ#だって「変」にちがいないと、 疑問は解けませんでした。 大学時代、バイト先のバンマスが、オーナーのことを 「あいつはBb(ビーフラ)だからなー」と言ったのを聞いて 目から鱗が落ちたのです。 やはりbは「変」なのですね。 C調(単純)な、に対して Bbは下がった奴、変な奴、一筋縄ではいかない奴なのです。 「ならばもっとも変な奴はDbでもっとも賢い奴はBだな」 それ以上は考え方見方によってどちらにもなる。 そこでまた納得しました。 昔の人はちゃんと楽典を知っていたのですね。 「天才と、うましかは紙一重だ」ってね。 それに 「なんでも多ければ良いというものではない」ってね。 皆さんは何が何個でしょうか? NO29 2005年10月 ふと気づいたり、それから次々と連想したりすることがあります。 いつもは気にもとめていないことであっても... 例えば「秋」 さんまの匂いに、長く伸びる飛行機雲に、 ゴーンと響くお寺の鐘の音に、心の寒さにetc. 逆に「秋」というとボクは祖父を思い出すのです。 高校生のころ、 囲碁を打っていると突然停電になり 「せっかく勝ちそうなのに」というと 「これも運命じゃ」と、の賜った祖父。 なぜか秋になると思い出すのです。 命日が10月10日なので祖父を思い、その季節が「秋」で、 それからエピソードが浮かぶのではありません。 つまりこれらの因果関係は、順不同なのですね。 先日お見舞いの果物を選んでいると、孫が来年小学校なのに気がつきました。 すると自分の過年齢に思い至ってしまったのでした。 音楽を聴いている時も、ふと気づいたり、思い出したりすることがあります。 音楽はいろんなものが、たくさん入っている魔法の箱なのですね。 でも、いっぱいあるうちの一つは「パンドラの箱」かもしれませんよ...。 NO28 2005年9月 ピアノには何故白鍵と黒鍵があるのでしょうか。 仮に全部白鍵だったらどうでしょう。 白鍵黒鍵が交互になっている場合と同じように、 位置が分からないので困ります。 またオクターブが広すぎて演奏不可能になります。 そこでハ長調の幹音で自然に半音になる 「シとド」「ミとファ」のところだけ白鍵を続け、 他は交互にしてこの問題を解決したのですね。 また理論的にはどちらでも良いはずの 「ド」を白鍵から始めたのは、 親指の構造を考えると納得がいきます。 では高音になるとダンパーがなくなるのは何故でしょう。 高音は倍音が少ないから濁りが気になりにくく かえって華やかさが強調されるからですね。 ではでは、白鍵の形がちがうのはどうしてでしょうか。 「ド」と「ファ」、「ミ」と「シ」は同じですが他は微妙に異なります。 だから、白鍵の間のすじは必ず黒鍵の真ん中にきているとは限りません。 これは白鍵の幅を同じにすると同時に、 ハンマーの大きさと相まって、重さを一定にするためです。 訓練されたピアニストが同じ力で打鍵すると同じ強さの音となり、 ディナーミク、アーティキュレーション、音色などの変化が可能になるのですね。 全体の形や弦の張りかた、アクションやペダルなど ピアノには秘密がいっぱいあります。 でもそのアイディアと、それを具体化した複雑な構造があるからこそ、 声や弦などとちがい、誰が弾いてもそれなりの音が出せるのです。 半分技術者が音を作ってくれているのですね。 NO27 2005年8月 始めて楽譜を見たとき、 脳の一時視覚野がそれをとらえ、 左脳と右脳の視覚連合野が活性化する。 すると、左脳の側頭葉にある聴覚連合野が 楽譜を音としてとらえるのだといいます。 難しいですね。 さて、ここで大切なのは、音として聴いていないのに、 聴覚連合野が活性化し見たものを音としてとらえる、 つまり「見ているのに聴いている」ということです。 小澤征爾は、次の演奏地に向かう飛行機のなかで スコアを聴いていたのですね。 ならば、臭覚、味覚、触覚、 そして第六感からも音楽を聴くことが出来るでしょう。 モーツアルトは楽譜がないのに音楽がきこえ、 そのまま作品になったのでしょうね。 一般に、自分自身のなかで、98%は「視覚ー聴覚型」ですが 残り2%のなかに「臭覚ー聴覚型」「味覚ー聴覚型」「触覚ー聴覚型」 そしてほんの少し「第六感ー聴覚型」がまじっているのですね。 皆さんの2%は何型ですか。 NO26 2005年7月 「NOといえない日本人」というのがありました。 自分の意に反することを、きっぱりと断れないというわけで、 何となく「それは良くない」というニュアンスがあります。 でも日本の文化はYES・NOで割り切れないものが多く、 そこが魅力のひとつにもなってています。 別の観点からすると、いやで仕方がないけれど、引き受けた仕事が 後の大きな発展につながることが、いくらでもありますね。 だいたい、YESかNOしかないなんてつまらないと思いませんか。 YESーNO。YESxNO。ーNO。ルートNOなんかがあってもいいのです。 YESxNO/2=恋の三角形の面積。なんてのはどうでしょうか? そのあたりが実生活と芸術のちがいであり、 役にも立たないことをやっていると思うでしょうが、 現在即役立つものを超えたところに芸術はあるのですね。 こう考えてみると最初に書いたように 「NOといえない」などと断じるのは、 とても不遜なことにみえませんか。 世の中には、多くのことを肯定でき、 「いえない」ではなく「いわない」人もいるのです。 音楽にも、全てに共通し、すべてを肯定する、 物理でいう「大統一理論」が予言されます。 NO25 2005年6月 「音色」(ねいろ)を辞書をひくと 「他の音と区別される、その音に独特な感じ」とありますが、 その独特さは何で決まるのでしょうか。 それは倍音によるのですね。 基音が同じでも倍音を含む度合いによって違ったり、 倍音がきちんと整数倍になっていなかったりするのが 音色の違いになるのです。 特にヴァイオリンのように身体に触れて演奏する楽器は、 弦や胴の他に、演奏者自身の振動も加わり、さらに複雑化していきます。 又弾き方によっても、倍音の大きさや強さが常に変化します。 正に千変万化です。 しかも、これは一つの音のことなのですから音色は無限なのですね。 でも実際は、こんな物理的なものではなく、 辞書にあるように、多分に心理的「感じ」として捉えています。 何故なら私達は、それを、わずかばかりの語彙の中から 「明るい」「輝かしい」「温かい」「なつかしい」などと 印象で語るしか出来ないからのです。 音楽は人間の能力をはるかに超えているにもかかわらず 人間の内奥にも同時に住むことのできる超次元存在なのです。、 それについてどんな偉いことを言っても、 所詮「砂漠に落ちた一本の針」に過ぎません。 音楽をする人はいつも謙虚でなければいけませんね。 NO24 2005年5月 ヌーベルバーグというのは映像の世界の「新しい波」のことですが 芸術全体に一般化されています。 この「新しい」についてちょと考えてみましょう。 スポーツの新記録のように、今までにない状態になるか、 その状態が継続しているかということが「新しい」の基準です。 だから、また別の「新しい」がでてくると 前の「新しい」は「古い」に変化していまいます。 「新しい」は現在で「古い」は過去であり 「古い」がどんどん多くなっていくのに対し 「新しい」は常にひとつなのですね。 このHPの最初に「新しいことを始めるのはドキドキする」と書きました ユークリッドからリーマンへ、ニュートンからアインシュタインへ古典派からロマン派へ... みんなその時は「新しい波」の出現にドキドキしたのでしょうね。 音楽の演奏も現在を紡ぎだした瞬間に次々と過去へ去っていきます。 やり直しやリセットは出来ません。 そう考えてみると、これは人生と同じですね。 人は意識するしないは別としても、誰でも音楽しているのです。 一人ひとりが、60兆もの細胞で奏でていろ交響楽は、 「新しい波」を起こしながら次々と世代を超えて演奏され、 彗星の尾のように「古い」を後方に引いているのです。 すごいと思いませんか。 NO23 2005年4月 2度音程には狭い順に減、短、長、増がありますが、減2は完1と短2は増1と、長2は減3と、 そして雑煮は炭酸と同じです。 このようにしてオクターブ内の音程のうち、同じものを書き出してみると、 左右対称にきれいに並んでいることがわかります。 (失礼!ボクができなくてキレイでないのです) これをボクは「音程のVサイン」とよんでいます。 もうすこし詳しくみてみましょう。 この左右は転回音程を考えると、すべて一致していることに気がつきます。 内容もまた対称なのですね。 今度は完1を転回して完8をつくり、それが増7と同じだから、転回して減2をつくる、 等というふうに進めていくと、音程が全部できてしまいます。 つまり「同じ音を完1とする」という公理を導入した時点で、 すべてが決定していたのですね。 だから音程は難しくありません。 Vサインです。 なぜならみんな完1なのですからね...ウフフ。 完8=増7 減2=完1 減8=長7 短2=増1 短7=増6 減3=長2 減7=長6 短3=増2 短6=増5 減4=長3 減6=完5 完4=増3 減5=増4 NO22 2005年3月 「何故ト長調はシャープが1個つくの?」これはすぐに答えられる。 「何故これをニ長調というの?」これも大丈夫。 「何故この音をAというの?」 こうなると「そうきめたからだよ」というしかない。 実際、時代やそれぞれのオーケストラによって異なりたくさんのAがあった。 紛らわしいので国際会議でA=440と、ひとまず決めたのですね。 つまり、これらは最初に公理的なものを決めたから説明できることで、 1+1=2だから2+2=4になるのとおなじですね。 それではこれはどうでしょう。 「何故連続8度はいけないの?」「何故長調の第3音を重複してはいけないの?」 これは「そう決まっているからだ」と言うわけにはいきませんね。 なぜなら、長い歴史のなかでその進行や和音が、 そこだけ目立って違和感をおぼえるという感覚が 理論として定着したものだからです。 だから、そんなことを感じない人にとっては、何の意味もありませんが、 西洋音楽を学ぼうとしている人にとっては、 それを聴き分ける耳が大切なのですね。 では「作曲とは何でしょうでしょうか?」 上述のようなことは基礎的なことであり たとえば、銀河系のなかの太陽系のようなものです 作曲はまず太陽系を知り、 そこから、 危険が待っているかも知れないけれど あえて、未知の星系を求めていくのです。 「作曲は冒険の旅」なのですね。 NO21 2005年2月 年とともに、ものの見方が変わってくるのは普通のことです。 かつてボクは「三角は三角だ」と信じていましたが、 ある時から「三角も四角も同じだ」と思うようになりました。 紐でつくった三角はすぐに四角や丸になるではありませんか。 音楽は、聴くがわの状態によって異なり、 悲しい時に聴けば癒されても、 楽しい時に聴けば退屈するかもしれません。 やはり三角になったり四角になったりするのです。 同じ曲なのに...。 これらはみな、人間が「癒された」「退屈した」とか 「三角だ」「四角だ」と思いこんでしまう 脳の作用(ブレイン)であり、 時の流れのなかで、一瞬の仮の姿なのですね。 (はたして、その実体はあるのでしょうか?) 当ラボでは それらがすべて同じであると観じている 魂魄の作用(ソウル)を通じて その実体を求めているのです。 NO20 2005年1月 データ小佐をご存じでしょうか。 スタートレック・エンタープライズCCー1701ーDの乗組員で、知り得るかぎりのデータを有し、高度に発達したニューラルネットにより、多彩な能力を発揮して、船内のすべての調整を担当するA・Iです・・・これは24世紀のお話。 今21世紀、そろそろ私達もデータ生活の予感があります。 一例をあげれば、病気の診断ネットワーク。 複数の症状を選択すると、病名または可能性が%で示され、簡単なものは、「投薬」を選択すれば近くの薬局ですぐに薬がもらえる。 「要精険」や「要治療」が表示された場合は、そこを選択すると、その時点から1週間以内に面接し、検査や治療が可能な専門医と、治療機関及びタイムスケジュールがが表示され、さらに選択すると予約が完了するといった具合です。 やがてこれらはすべての分野において可能となり、端末機(携帯など)でアクセスすれば、どんなデータでも瞬時にわかる全地球データースフィアが形成されることでしょう。 まさにデータ万能ですが、何か欠けていませんか。 実は2371年、データ少佐は、より人間らしく生きたいと、自らの意志で「エモーションチップ」を組み込むのです。最初でた涙に思わず故障かと疑った話は共感をよびます。 有名なフレーズをたくさん組み込んだコンピューターから生まれた曲は、各作曲家の想いの断片をつなぎ合わせたものにすぎず、作曲とはいえないのですね。 明けましておめでとうございます。 2005年は7の年、 データは使用してもそれに使用されないように心がけ、 ラッキー7といきたいですね。 NO19 2004年12月 月が金星と木星の間に入り、一列に並びました。 既に計算で分かっていたことでしょうが、ボクにはとても神秘的にみえました。 自然はそのまま芸術なのですね。 星座を形成している恒星にそれぞれ固有の音を与えて 「星座の音楽」を作ったと人がいたと聞きましたが、 地球からの距離、光度だけではなく、 成因や成長過程も異なる恒星に、 人間が一つの音を与えるなど、とうてい出来ることではありません。 ましてや、それにコードをつけて演奏するなどは 自然を冒涜するものではないでしょうか。 そもそも人間は自然から生まれ、 心は自然が投影された影のようなものです。 影は自分の真上しか見ることが出来ません。 私達は自然に囲まれているけれど、一部しか見えていないのですね。 そのほんの少しだけ見ることを許された自然すら見ようとせず、 自分の都合のために蔑ろにする人のなんと多いことか。 悲しいことです。 でも、なかには見えている時間を大切にして その中に心をおいているうちに、 その一瞬を意識できるようになり、 深奥に広がる5から11次元の世界を垣間見る人もいるのです。 それは言葉や映像による啓示をはじめ 「太陽が体内に入った」などという意識の実体験として現れます。 そんな経験をした人は、どの分野においても、 世界のリーダーになるか芸術家です。 なぜなら、自然がそのまま芸術であれば、 彼等自身もまた芸術にほかならないからです。 皆さんは、そんな体験がありましたか? 音楽も同じですね。 NO18 2004年11月 「地球が怒っているのか」 10月22日の朝日新聞社説です。 私は3月に、今年は禍の多い年となるだろうと書きましたが、 そのとおりになってしまいました。 台風や地震(亡くなられた方々に心から哀悼の意を表します)。 世界に目をむけると、アメリカのハリケーン、ヨーロッパの熱波、中国の大洪水など自然現象による災害に限定しても、各地で猛威を振るい、数も規模も大きくなる一方です。 やはり地球は、私達人間を怒っているのですね。 雨宿りをさせてあげた人に、家内に入り込まれ、勝手に玄関やトイレの位置を変えられ、部屋中にゴミを散らかされたばかりではなく、ドアをはがし、家具をバラバラにして燃やされたら怒るのは当然です。今まで、免疫力(地球の自浄作用)でカヴァーしながら、その都度人間に警告を送っていたのが、やがて耐えられなくなり、直接被害を与えることによって、大きく警鐘を鳴らし始めたのです。 こんなことを繰り返していると、100年いや50年先には、東京は鹿児島なみの気温となり、あるところでは大雨、またあるところでは干ばつと二極化が進むでしょう。海面は上昇し、低地は水没して島国の人達は行き場を失うでしょう。 ではどうしたらいいのでしょうか。 共存です。 動植物をふくめ、自然と人類は共に生きているのですからね。 音楽も、同じです。 三要素がバランス良く混合、融合されてこそ 心に残る美しいものとなるのですね。 NO17 2004年 10月 たいへん失礼しました。 2回も先延ばしにしてしまいました。 ボクが飲んだのは「だから」です。 ちょっと甘いのが気になるけれど結構いけますよ。 さて前回は線から面へと進みましたね。当然次は立体です。 今度は深さを考えてみましょう。 表面は小さく、時間も短くても、奥行きが深ければ、体積として大きくなり それだけ幸福も増すことになります。 しかし、その深さは表面から見えません。 つまり幸福についてデジタル的に追求していった結果、 現段階では、計ることができない 「目にはさやかに見えねども」の世界に行き当たってしまったのです。 「草原情歌」という歌をご存じですか? お金も宝もなんにもいらぬ 毎日その笑顔じっと見つめていたい これはデジタルの例ですね。 次の時点では「いらぬ」や「毎日」が変化するでしょう。 表面に見えている幸福はそんな不確定なものです。 目にみえない深さにこそ,幸福があるのです。 音楽の感動も同じですね。 (次元を下げて表現しています。実際は線の段階が4次元時空間です) NO16 2004年9月 そんな単純なものではありません。 失礼! 約束していたNO12の続きです。 回数が多いほど幸福だというのなら、 毎日何回も幸福を感じ一生を過ごすのが最上ということになります。 でも考えてみてください。 前述のフランス料理にしても、毎日続けられたらどうでしょう。 きっとお茶漬けが恋しくなるにちがいありません。 何事も何度も繰り返すと、一般化が進んで普通のことになり、やがて飽きてくるのですね。 そして幸福は不幸に変身してしまいます。 そこで数ではなく強さを導入し、デジタル的に表現してみましょう。 一本の線から、幸福(プラス)を感じた強さを上に、 不幸(マイナス)を感じた強さを下に、 生まれてから順番に棒グラフで描いてみると、 プラスの長さのトータルとマイナスの長さのトータルの差がその人の幸福度となります。 それでよいでしょうか? 感じている時間を忘れていますね。 ではそれを棒グラフの幅として入れてみます。 今度は全体の面積の差によって幸福度をはかるのです。 一見音楽表現にも同じようなことが言えそうです。 でも「君の一生(音楽)は結局幸福度(感動)0だね」 なんて言われたらつまらないですね。 だから次も考えてみたいのですが...のどが乾いてきました。 文中から、今ボクが飲もうとしているものを探して下さい。 賢明な皆さんは、次回に何を書くかもふくめて もうお分かりですね。 NO15 2004年8月 先月から夏の高校野球の予選が始まり、本県からは青森山田高校が、抜群の投手力と猛打で甲子園への切符を手にしました。 スポーツの世界では、たとえ実力伯仲であっても、1位と2位とは雲泥の差があります。ましてや1,2回戦で敗退したところなど、一般には、話題にものぼりません。 音楽はどうでしょうか。 先頃仙台で開催された国際音楽コンクールでは、聴衆が投票して自分たちが一番感動したプレイヤーを選んだり、1次、2次予選を通過できなかった人にも、市内のホールで演奏するチャンスを与えようとする試みがなされ、音楽を愛する市民も協力しているといいます。 とてもすばらしい! コンクールの企画全体がおおきな音楽なのですね。 演奏はアーティキュレーション、フレージング、ダイナミックスなどを、楽譜どうりに正確に演奏すればよいかというと、そうでもないのです。 何故ならそれらのファクターは、時間のなかで流動しているからです。 音楽は時間の芸術であり、平面の楽譜には書ききれないのですね。 そしてそれらをクリアしている人達による高度なコンペともなれば、1位と2位は98%同じ領域を占めているといってもよいでしょう。 でも2%という残りは、ヒトとチンパンジーの違いと同じなのです。(ゲノム解析による) 芸術は深遠ですね。 NO13 2004年6月 彗星がやってきました。 しかも二つ同時期に。 今月、弘前からはその二つ「ニート」と「リニア」が、 岩木山のあたりで同時に見られるそうです。 近日点を過ぎているので、望遠鏡を使用したほうが良いとか。 (まあボクにはいずれ無理) 彗星は、はるか海王星の外側に広がる、カイパーベルトという彗星の巣から、 長い年月をかけてやって来るのだという。 核は氷が主だが二酸化炭素やアンモニアが、混じっていて、 私達につながる生命は、彗星の衝突によってもたらされたという説もある。 そして彼等は、時を経て再び地球にやってきた。 まるで私達の成長ぶりを見定めるかのように... ウフフ、ボクの世界になりそうだね。 これは、時空間のスケールこそちがえ、 人間の出会いと同じです。 生まれも育ちも異なる二人が 遠い地で出会うなんてだれが想像出来るでしょうか。 「運命ヤナー」ームの幻影ーより。 音楽との出会いも同じですね。 HPを開設して一年になります。 これを機に、http://www.k-musiclabo.comに引っ越しました。 1600余の方々と出会えたことを心から感謝するとともに、 今後ともよろしくおねがいします。 NO12 2004年5月 「しあわせだなー」と言って、大ヒットした歌手で俳優がいましたね。 (えつ知らない。ボクはやはり古いかな。) その「しあわせ」というのはなんでしょう。 そう、一般にいう幸福ですね。 では幸福か不幸かは、何によって決まるのでしょうか。 人類共通の基準があるのでしょうか。 そんなものはありませんね。 幸か不幸かは、それぞれの人がどのように感じるかによって決まるのです。 お金がなくて一枚の塩煎餅をくわえ、両端から食べ合っているカップルもあれば、 地位も名誉もあり、豪華なフランス料理を前に、別れを告げなければならない2人もいます。 この時、煎餅とフランス料理は、どちらがおいしいのでしょうか。 前者は砂糖のように甘く、後者は、砂のように無味なものとなるに違いありません。 幸不幸を決定しているのは、あくまでも人間であって、他のいかなるものにも、その責任を負わせることはできません。 音楽の素材も同じですね。 では幸不幸の度合いをどのようにして計るのでしょうか。 「しあわせだなー」と思った回数が多い人が少ない人より幸福なのでしょうか? 皆さんはどう思いますか。 紙面がなくなりました。続きは次回、いやそのまた次回の次回にしましょう。 NO11 2004年4月 桜前線が近づいて来ました。 弘前は4月18日に開花と予想されています。 毎年開かれる弘前城桜祭りは 公演内にある、およそ3000本のソメイヨシノが咲き誇り、 200万の人出で賑わいます。 春ですね。 でも、地球上全ての人が春を体感できるわけではありません。 四季のある地域に住んでいる私達は幸せなのです。 なぜならそれぞれの特色や、その移り変わりは、脳を、魂を刺激して、 あらゆる理性と感情を喚起し、人を豊かにしてくれるからです。 四季を通じて、私達は、無限に広がる”目にはさやかに見えねども”の世界に触れ、 発明、発見につながる鋭い直観や、、 ”もののあわれ”を知る、繊細な心を、 受け取ることができるのです。 音楽も同じですね。 今年は「ダンゴより花」にしてみませんか。 NO10 2004年3月 今年は「6」の年です。 一般に偶数は女性数といわれ、「6」は調和、育成、保守などを表しますが その傾向が強すぎると一転不調和となり種々の禍わいを招きます。 実際、第二次世界大戦勃発(1941年)に代表される「6」の年には、何か世界的な事件がおきています。 記憶に新しいのが阪神大震災(1995)です。わずか20秒ほどのゆれのために、6500人余の尊い命が失われることになったのです。しかもその日、1月17日を加えても「6」になるのは単なる偶然でしょうか。 イラク戦争やサーズが今年への前奏曲にならなければ良いがと思っていた矢先に、鳥インフルエンザです。狂牛病問題も未解決で、、CJD(ヤコブ病)との関係も定かではありません。 バイオハザードの心配があります。 予想もしなかった災害や事件にあった人達は、心に大きな痛手を受け、その傷が後々まで残るといわれています。 そんな時、音楽が力を発揮するでしょう。 音楽療法は未だ一般に広く理解され、各医療機関で行われているとはいえませんが、やがて注目されるに違いありません。 青森県内でも、青森明の星短大の原沢康明教授を中心に実践的な活動が展開され、着々と成果をあげています。 音楽はすごいですね! 数字の読み方:各桁の数字を1桁になるまで加える。 NO9 2004年2月 Kミュージックラボはなんでしょう。何をやっているのでしょう。 KはミスターKのKですし、ミュージックも分かります。 ではラボは何でしょう。ラボラトリーの略だということは分かるのですが、音楽を実験し、研究するとはどんなことでしょう。 私が今やっているのは、理論、技術、歴史などの分析的なものではありません。 音楽のもっている「力」いわば「音楽力」について、考えてみようというのです。音楽の影響力は測り知れません。それを論理的、演繹的ではなく、試行錯誤的、帰納的であり、それ故に実験的、体験的ともいえる手法で見つけだしたいにです。 作曲したり、企画や指導したりするのも、その課程なのですね。 でも、これは書けばこうなるのであって、ことさら意識しているわけではありません。又その背後には常に直観があり、次の目標もみえているのです。 一つだけ頭にあるのは、44か月で一回りするということです。 さてみなさんは、なぜ44なのかおわかりでしょうか? NO8 2004年1月 悔いのない年でしたでしょうか、昨年は。 悲しい出来事がたくさんあり、個人的にもいろいろあって、苦労の多い年だったと思っている人達もいることでしょう。 人は誰でも楽しい時より苦しい時のほうが多いようです。けっしてあなただけではありません。では、何故苦しむのでしょうか。それは何でも自分の思うとうりにならないからです。お金が欲しい地位が欲しい恋人が欲しい、死にたくない別れたくない...それらの望みは決して思うとおりにはなりません。 では、何も望まなければ良いのでしょうか。それも又できません。人間は生物であり、生きることを始め、望まないわけにはいかないのです。だから、「望むから苦しむ、苦しむから望む」の輪の中から逃れることが出来ません。でも、そこから向上心が生まれ、人類として発展してきたのですね。苦は楽の種子だとしたら、あなたは何を望みなすか。 そして音楽はその先にあるのですね。 明けましておめでとうございます。 2004年元旦。 NO7 2003年12月 今日の前の日が昨日で、次の日が明日なんですね。 明日になると、明日が今日で、今日が昨日、明後日が明日になる。 一週間後も1ヶ月後も同じなので、 今日をnとすると、どこををとっても(nー1)、n、(n+1)を繰り返す連鎖になっていて、 ひょっとすると1億年前も、1億年後もその関係が成り立っているのではないでしょうか。 「なに!当たり前だって」 楽典に五度圏というのがありますね。C、G、D、A、E、H、と主音が5度ずつ上がり、#を1個ずつ増やして、Fisに至るものです。何か前述のことと似ていませんか(たとえばA=今日、D=昨日、E=明日です)。当然♭系もも同じです。Cは#と♭の境目ですが、#が減ることは♭が増えることと考えると、やはり同じです。記号がいくつあったって恐れることはありません。何時も何度でも(nー1)、n、(n+1)にすぎないのですからね。 ところで、仮にCから始まるとして、Fis=Gesだとすると、一周するのに12の調をめぐり又最初の位置にもどってきます。これはそのまま、太陽を12ヶ月で一周する、地球と同じだと思いませんか。12星座、12支等に代表される、12進法は、太陽と地球やその他の恒星の動きからきているのでしょうね。そして音楽も1オクターブが12音からできていますよね。 皆さんはどう思いますか。 「なに!、当たり前だって」 でも本当にそうでしょうか? 字数オーバーになりました、続きはこの次にしましょう。 ☆この文中に有名な曲名を見つけましたか? NO6 2003年11月 火星が最接近し、次は6万年後でないとその日が来ないというので、マスコミでも 大きく取り上げられました。なるほど私の視力でも赤っぽい姿が見えるのだから、今までにないことです。もっと詳しく見たいと思い、次の日双眼鏡を買ってきました。 また南東の空をのぞき見ろと、 ようやく視野に入ってきた火星は、形こそ大きくなったものの、表面がゆらぎ、ぼけて見えるのです。大気のせいでしょうね、肉眼のほうがよほど美しく、夢があると思いました。i 機器を使用して拡大し、細かく調べれば良いというものではありませんんね。 調べ、実験し、証明しなければならない科学の世界は、点の連続による線のようです。でも仮説をたて、実験を繰り返しているうちに、まったく別の新しい発見に結びつくことがあります。 いや大発明、大発見は、むしろそんなことのほうが多いのではないでしょうか。 それはまっすぐ進もうとする科学と、自由に飛び回っている芸術が、 一瞬交叉したと考えられます。 天才はその瞬間に気がつき、 その一点からあらゆる方向に可能性が広がっているのを観るのです。 音楽、特に作曲には、同じことが言えますね。 NO5 2003年10月 「大きいことはいいこただ」というコマーシャルがありました。 諺にも「大は小を兼ねる」というのがありますが、 これは一昔前の話しではないでしょうか。 現在は、電機、電器関係をはじめ、あらゆる分野でICが使用され、 最近は、さらに薄型にもなったチップが紙幣に組み込まれて、偽造を防ぐそうです。 実験段階では、ナノレヴェルの開発も進んでいます。 もう10年もすれば、前に話題をよんだ「ミクロ決死圏」というSF映画そのままに、 血管の中を移動しながら治療することが可能になるでしょう。(人はまだ無理ですね) つまり、小さいけれど大きい仕事をしているのです。 音楽も同じですね。 ピアノにはフォルテ以上に、大きな力があるのです。 そんな演奏にふれた時、聴衆はみな身を乗り出し、 固唾をのんで聴き入るに違いありません。 ( NO4 2003年9月 映画、テレビやDVDなど、映像によるエンターテインメントが氾濫しています。 刺激を受ける強さは、視覚が70%を占めると言われているのですから、当世としては当然のことといえましょう。 それならば音だけだったらどうでしょうか。 ラジオドラマを聞いているだけでも、充分に内容が伝わってきますね。刺激を受ける範囲が広くなるからなのです。 もし音も無いとしたらどうでしょう。 小説を読んでいる時は映像も音もありません。でも、刺激はより深くなるのです。 それは何故でしょうか。想像力がはたらくからですね。 同じ場面でも、映像は演出者によって選ばれ、固定化したものを見せられてしまうのに対して、読書は読む人の思考や経験によって、数多くの異なるシーンになるばかりではなく、それぞれの人の内においてさえ、時間とともに変化するのです。 皆さんは映像の強さや華やかさに惑わされていませんか。 せっかくもっているはずの「SOUZOU」力をスポイルされていませんか。 音楽する人は、その強さ、広さ、深さの次元について、考えてみたいものですね。 NO3 2003年8月 「美しい」ことは嬉しいことでしょうか? 20年以上も前に、私は「美しい」と「きれい」の違いにを内面と外面に例えて話しましたが、 実は外面は内面から滲み出てくるもので、内面の内に外面が含まれているのですね。 つまり「きれい」は「美しい」という上位のフォルダの中に入っていると思えばいいのです。 だから「きれい」は「美しい」の一部であり、「きれい」から連想される「良い」「明るい」「うれしい」などのプラス系の感情は、当然「美しい」にも入っています。 では、どこがちがうのでしょう。 「美しい」にはマイナス系の感情も入っているのですね。 つまり絶対値として、全てを包含しているのです。 勝利に歓喜し、自信にあふれた顔も美しいし、敗北に涙する顔もまた美しいのですね。 「美しい」ことは嬉しいことでも悲しいことでもあるのです。 音楽も同じですね。 NO2 2003年7月 生きていくのは、本当に大変なことなのです。喜びも悲しみも、良いことも悪いことも、すべての対極にあるものが、身体の内に一緒に詰め込まれているからです。 私達は、この二つの相対するものの間を、振り子のように行き来しています。もし、大きく振れようと望むなら、楽しみも大きいかわりに苦しみもまた大きくなることを、覚悟しなければなりません。でも今、悲しみの中にいる人は、やがて喜びに出会うことになるのですね。その振幅は、先天的、、後天的に人によって異なります。又通常、今どこを振れているのかはわかりません。それが不安だからといって、中間で停めようとしてはいけません。 それは即死を意味しているからです。 音楽も同じなのですね。 さて、皆さんは大きく振れたいですか。それとも小さくですか。 NO1 2003年6月 新しいことが始まる時にはちょっとドキドキするものですね。そして今の私のように、期待に胸を膨らませたり、うまくいかなかったらどうしようと悩んでしまったりします。何故そんなに心が揺れるのでしょうか?当然のことながら先がどうなるか分からないからですね。 でも結果が分かっていたらどうでしょうか、昨日の試合をビデオで見るようなもので、とても感興が湧くものではありません。やっぱり分からないからいいのですね。これは可能性の魅力といえましょう。 皆さんは最近ドキドキしていますか。日常の繰り返しのなかに埋もれていませんか。 そろそろ何か始めてみませんか。 |